第2回 深セン特区から準備着々
中台統一見据え「一国二制度」



 七月一日、香港は中国返還十周年を迎える。約百五十年間の英国領時代を終え、一九九七年七月一日、香港は中国に返還され、「一国二制度」下の香港特別行政区政府が発足して十年。新型肺炎(SARS)問題を克服し、中国本土との経済的依存度を増しながら「アジアの金融センター」を維持しようとする香港はどう変わったのか。返還十年を迎える香港やその周辺の現状、取り巻く課題、将来展望を掘り下げていく。(香港・深川耕治、写真も)


トウ小平の悲願

中台統一見据える、矛盾対処は「実践」任せ

急速に発展する深センの羅湖税関周辺。向こう側が香港

 香港と陸続きの広東省深セン。羅湖税関にほど近い市内随一の高さ三百八十四bを誇る超高層ビル「地王大厦(信興広場)」最上階に故・トウ小平氏とサッチャー元英国首相の蝋(ろう)人形が置かれている。一九八二年九月二十四日、北京の人民大会堂福建庁でトウ小平氏とサッチャー英首相(当時)が香港問題について話し合い、九七年七月の香港返還について基本的合意が行われた歴史的な一瞬を記念したものだ。

 この会談でトウ小平氏は「香港の主権問題は討論する問題ではない。時は熟した。一

九九七年に香港を中国に返還すると明確に肯定すべきだ」と迫った。サッチャー首相は「香港が中国に返還されると、壊滅的な悪影響が出るでしょう」と応答すると、トウ氏は静かな声で「もし、そうなら、われわれは果敢に対処し、方策を打ち出せる」と断言。その後、長年練り上げた「一国二制度」構想を提案し、「鉄の女」と呼ばれたサッチャー首相から香港返還の了承を引き出した。

 八四年一月二十五日、「改革・開放の総設計士」と評されるトウ小平氏は深セン市羅湖区を視察。当時、深センで最高層ビルの国際商業ビル(現・広信深セン酒店)二十二階から深センの全景を見渡し、「返還後の青写真」を見据え、陸続きで繁栄する香港の輝きを満足そうに注視した。

深●(=土ヘンに川)市羅湖区の超高層ビル「地王大厦」最上階に展示される故・トウ小平氏とサッチャー元英国首相の蝋(ろう)人形

 九二年一月十九日、再び深センを訪れたトウ氏は「深センは中国になくてはならない改革開放の実験地だ」と述べ、香港返還を五年後に控えた深センの発展ぶりを市幹部から詳しく尋ねている。当時、八九年の天安門事件、九一年のソ連崩壊によって頓挫の危機にあった中国は国際社会から孤立し、その打開策としてトウ氏は同年一月から二月、深セン、珠海、上海などを回り、改革開放路線の重要性を再確認する声明を発表(「南巡講話」)した。

 トウ氏の「一国二制度」構想は突然、打ち出されたものではない。四七年には新華社香港支社を開設し、中国共産党香港マカオ工作委員会も設立。一九七〇年代半ばには骨格は出来上がり、七九年三月二十九日、トウ小平氏が訪中した第二十五代のマクレホース香港総督と会談した際、「九七年の返還後、香港の政治的地位は変わるが、香港の特殊な地位を尊重して投資利益に影響を与えない」と話し、香港問題を英国政府との議事進行で解決する道筋をつけている(斉鵬飛著「トウ小平と香港回帰」華夏出版)。

 サッチャー首相との会談で返還交渉を決定的に有利に進める具体的準備は七八年に英国領香港、ポルトガル領マカオに中国国務院事務弁公室を開設して着々と準備。会談の一年前である八一年には、「香港や北京で会合を重ね、政治、経済、社会、文化、宗教など多岐にわたる二十九の専門リポートを通して返還後の政策立案を準備した。トウ小平同志は香港の有識者を北京に呼んで多くの意見を聴取して分析し、当初構想していた中国、香港、英国の三代表による共同管理案を廃して広範な調査研究の上に『一国二制度』構想はゆっくりと形成されていった」(魯平元中国国務院香港マカオ事務弁公室主任=党中央文献研究室編「百年小平」新世界出版より)。

広東省深●(=土ヘンに川)市内の広場にあるトウ小平氏の巨大な肖像画

 トウ氏は一九九二年、広東省珠海を視察した際、「経済特区について話せば、深センは香港に、珠海はマカオに隣接、汕頭(スワトー)は(隣接する)潮州出身の華僑が多く、アモイは台湾に近いから制定した」と語っている。そこには国境に接する都市を経済特区に変貌させ、回収するターゲットの都市や台湾をいかに貿易・経済、制度問題を氷解させることを通して政治的な「大中華統一」の悲願を達成するか、という最終目標が厳然と存在する。

 トウ氏は「国家統一(中台統一)の実現は民族の悲願であり、百年では不統一だが一千年かけて統一する。解決方法は一国家二制度だ」(団結出版「トウ小平祖国統一を論ず」)と言明。一九七八年十一月、ミャンマーのネ・ウィン大統領と会談した際も「台湾問題の解決にあたり、われわれは台湾の現実を尊重する。台湾のいくつかの制度は変えず、日米の台湾への投資や生活方式も変えないが、統一させる。核心は制度問題だ」(韓広富・胡永強共著「改革年代‐トウ小平改革の歳月‐」遼寧人民出版)と述べ、「一国二制度」はあくまで統一の手段であることを吐露している。

 香港、マカオが中国返還と同時に「一国二制度」、「基本法」制定を施行し、五十年間の“猶予”を経たのち、「中国の一都市」に変えていくプロセスにすぎないことは、トウ小平氏を取り巻く香港回収工作の戦略、発言から見て取れるのである。

深センの中心部は香港に限りない急速な近代化を進めている

 一党独裁の中国が毛沢東時代の大躍進政策、文化大革命などの多大な犠牲を経て、トウ小平氏は政治は一党独裁堅持、経済は資本主義導入という改革・開放路線を打ち出した。政治は共産主義、経済は資本主義という、いわば相容れないイデオロギーを「白猫黒猫論」「先富論」などで無理矢理統合しようとしたトウ小平理論は、政治自由化を封殺する天安門事件を引き起こし、経済力を中心に国力を増強させた一方、国内では貧富の格差、党幹部の汚職腐敗、言論統制問題など様々な歪みの構造を噴出させた。同じく、「一国二制度」という改革開放の延長線上にある植民地回収工作は、矛盾する「二制度」の齟齬(そご)が返還後、様々な問題を引き起こしている。

 中央文献出版「トウ小平思想年譜(一九七五〜一九九七)」によると、トウ氏は「一国二制度は基本法によって体現するが、基本本は問題を完全解決するわけではなく、実践による。香港人は基本法を非常に細かく策定しようとするが、細かすぎると、何もできなくなる」と述べ、予想通り「一国二制度」は実践段階で「細かい」問題を生じているのである。

トウ=登ヘンにオオザト、セン=土ヘンに川




【一国二制度】中国の社会主義と香港の資本主義制度を併存させるため、トウ小平氏によって提唱されたとされる中国返還後の香港、マカオの統治システム。中国本土領域から分離した特別行政区を設置し、一定の自治権と国際参加など「高度な自治」を五十年間保証する制度。当初は台湾の平和統一のために策定された。香港の場合、一九九七年七月一日から二〇四七年六月三十日までの五十年間、香港基本法(ミニ憲法)に従い、「高度な自治」の下で防衛と外交以外のすべての分野で英領時代の資本主義システムと生活様式を「港人港治(香港人が香港を治める)」として法律で保障しているが、香港基本法の解釈や選挙制度問題をめぐり、様々な問題が出てきている。

【香港返還までの歴史】
1840年 アヘン戦争勃発
1942年 清英が南京条約を締結し、香港島の英国割譲決まる
1887年 マカオがポルトガル領になる
1898年 香港・新界の99年間の英国への租借決まる
1937年 日中戦争勃発で香港に大量の避難民
1941年 太平洋戦争勃発で日本軍が香港占領
1945年 第二次大戦が終わり、香港が英領に復帰
1947年 新華社香港支社を設置
1949年 中華人民共和国成立
1978年 改革・開放政策始まる
1980年 全国人民代表大会で広東省深セン市、珠海市、汕頭(スワトー)市および福建省アモイ市に「経済特区」を設立することが正式可決
1982年 サッチャー英首相訪中で中英の香港返還交渉始まる
1983年 新華社香港支社長に許家屯氏(1990年に米国亡命)
1984年 1月、トウ(=登ヘンにオオザト)小平氏が深セン(=土ヘンに川)視察
1984年 12月、中英共同声明調印で1997年7月1日、香港の中国返還決まる
1985年 中英共同声明発効
1987年 ポルトガル領マカオが1999年12月20日の中国返還決定
1990年 中国、香港基本法を全国人民代表大会(国会)で可決
1992年 1〜2月、トウ小平氏が深セン(=土ヘンに川)、珠海、上海を視察し、「南巡講話」行う
1992年 7月、パッテン香港総督が立法評議会の民主化案を提出し、中国反発
1993年 香港の立法評議会の民主化案めぐり中英の交渉決裂
1995年 香港の立法評議会で民主派圧勝
1996年 12月、香港特別行政区初代長官に董建華氏を選出し、臨時立法会議員は親中派議員が大多数を占める
1997年 2月、トウ(=登ヘンにオオザト)小平氏(92)が死去
1997年 7月1日、香港が中国に返還され、香港特別行政区政府が発足