中国企画記事 特選

2004年8月31日記

中国の「反日教育」強化とその背景
歪んだ愛国主義へ誤導 江沢民前政権
内憂外患、「不満のはけ口」が日本に

ナショナリズムと国際協調の葛藤に直面 胡錦濤政権
内陸部の党への不満増大、そらせるか
サッカーアジア杯暴動、制御できず
 最近の日中関係は険悪な状況が続いている。昨秋以降、中国では黒竜江省チチハルでの旧日本軍遺棄化学兵器による死傷事故や広東省珠海での日本人集団買春事件、陝西省西安の日本人留学生の寸劇事件、サッカーアジア杯での日本公使車両破壊事件など、繰り返し、反日的な動きが続く。日本ではそれに反発する嫌中感情が高まり、尖閣諸島の領有権問題や東シナ海での海底資源調査をめぐる対立、在日中国人犯罪の多発で相互感情はさらに悪化しているように見える。いわゆる「政冷経熱(経済は活発、政治は低調)」が日中関係を覆う中、中国の胡錦濤政権がジレンマに陥っている反日教育の流れと背景を掘り下げてみた。(2004年8月31日記、深川耕治)

アジア杯の不満構造

 サッカーアジアの決勝、日本対中国戦が8月7日午後、北京の工人体育場で開催された際、貧富の格差で不満がうっ積する内陸部や近隣省市から遠路はるばる観戦に訪れながらダフ屋のチケットつり上げで入場できない若い中国サッカーファンらの一部は、不満の矛先を「中国が勝ったら天安門広場でどんちゃん騒ぎの祝勝、負けたら天安門で座り込み抗議」と決めていた。

 中国はホスト国でありながら、試合前の「君が代」斉唱の際、観衆はブーイングを続ける非礼を容認。工人体育場の周囲にたむろしていた彼らや場内にいた中国人サポーターらは三対一で中国が敗れたことに納得がいかず(日本の二得点目がハンドによる無効点と主張)に試合後、日章旗を焼き、日本公使の乗った公用車後部フロントガラスを粉々に破壊した。暴徒と化した戦争を経験したことのない十代から三十代の彼らはその後、天安門広場へ移動。その後、約二百人が日本チームが宿泊するホテル前でシュプレヒコールをあげて抗議しようとしたが、即刻、公安当局から阻止された。

 中国外務省の孔泉報道局長は「わが国はアジア杯の試合遂行のために多大な努力を行って成功裏に進行できた」と前置きした上で「ごく一部の過激行為はわれわれも見たくはなかった」と述べ、北京五輪を四年後にひかえ、同問題が国際問題化することを避けたいために最小限の「感情」のみ示したに留まった。

反日教育の歴史的流れ

 実は、この一連の動向は江沢民前政権時代に強化された反日愛国教育の高揚で自国民の暴動を制御できなくなった胡錦濤政権のジレンマを強烈に浮き彫りにしている。日本のメディアだけでなく、欧米のメディアからも五輪開催国としての能力に疑問符を突きつけられたことで、軌道修正を余儀なくされる事態に迫られているのだ。

 日中政治関係の冷え込みを象徴するのが、小泉純一郎首相の靖国神社参拝に起因する両国首脳交流の途絶だ。だが、日中関係が政治的に厳しくなった原因は一九八二年(昭和五十七年)に起きた教科書誤報事件に遡る。

 文化大革命の荒廃からやっと立ち直った時期に起こった日本の朝日新聞を中心とする大手メディアによる「侵略」を「進出」と書き換えたとする日本の教科書誤報事件で「日本敵視」政策が外交カードに有効と気付いた中国政府は、この時期以降、日本の残虐性を教え込む恒久施設建設や小学校からの徹底した反日教育に手を染めていく。

 中国内の反日記念施設としては八五年、南京市内に侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館が設立され、ハルピン市内に七三一細菌部隊罪証陳列館が仮設立された。八七年には北京・盧溝橋に中国人民抗日戦争記念館が開設され、九〇年代に入ると、反日記念施設は全国各地で次々と設立されていく。

 中国の中学生用歴史教科書では一九八〇年版では南京大虐殺という項目・章すらなく、南京事件について死者三十万人と記述(わずか百五十字)していたのが、八二年版では人数が三十数万人に増加。九二年版では南京大虐殺の項が独立して五百二十字となり、九五年版では挿絵が十枚も追加された。

“敵役”にされた日本

 中国共産党は毛沢東時代、階級闘争を全面に打ち出して民族苦からの解放を掲げて国民を結束させ、トウ(トウ=登ヘンにオオザト)小平時代には改革開放による「先富論(富める者から先に冨めよ、とする論)」で党の求心力を維持してきた。だが、カリスマ性や独創性に欠ける第三世代指導者、江沢民氏は、政治の一党独裁、経済の市場主義という矛盾が内陸部と沿海部の貧富の格差拡大や私有財産の容認という形で浮き彫りになる中、国民の不満を内憂外患という形で外にそらし、スケープゴードとして日本を敵視する愛国主義思想を導入した。

 この愛国主義教育の実施時期は、中国の反日記念施設の建設ラッシュや中国の歴史教科書に戦後の日中関係の動向は一切省いて戦前の日本軍の残虐行為のみを強調する内容を増やした時期と一致する。

 江沢民氏が国家主席に就任した九三年の一年後の九四年、中国共産党は「愛国主義教育実施綱要」を公布し、教育対象を次世代の青少年に絞って翌九五年から本格的な愛国主義の鼓舞が始まった。8章40条から成る同綱要は日本を非難する文言は一言も入っていないが、実際は中国・中国人に被害と侮蔑を与えたとする反日教育の原点となっている。党内基盤が安定し、権力を完全掌握した時期に江氏の独自カラーが出た内容といえる。

 「抗日戦争勝利五十周年」にあたる九五年、「反日」キャンペーンはテレビ放映や映画上映などで四ヶ月間に及んだほどだ。この教育の洗礼を受けた世代が一〇代、二〇代のネット世代だ。持論のみを主張して他人の意見に耳を貸さない“疑似インテリ層”と呼ばれるネット世代は日本語で翻訳するにもおぞましい反日言論を競い、外交当局の対日政策に圧力をかけてきたが、民意重視を掲げる胡錦濤政権下でその傾向は一層強まった。

反米の歪みで軌道修正へ

 だが、この愛国主義教育が軌道修正を迫られ始めたきっかけは一九九九年五月、ベオグラード中国大使館爆撃事件だ。北大西洋条約機構(NATO)米軍のミサイルが在ベオグラード中国大使館を直撃して中国人記者ら三人が死亡、反米愛国のうねりが官営デモを各地で展開させ、北京では米国大使館が襲撃され、公安当局の制御が効かなくなった。

 このころから全方位外交による国際協調路線に舵を切り始めた中国は中米関係を改善させ、〇一年四月一日に南シナ海上空で米海軍偵察機EP3と中国軍機が接触して中国軍機は墜落、米軍機は海南島に緊急着陸する事故では、反米暴動は抑制された。

 江沢民前政権時代の反日教育強化の青少年への影響は予想以上に大きく、胡錦濤政権が対日政策を大きく変化させる動きはない。愛国の名の元で現政権に国民からの突き上げが起こることを恐れ、政権安定を最優先に考えているからだ。

 〇二年末以降、人民日報評論員(当時)の馬立誠氏や中国人民大学の時殷弘教授、中国社会科学院日本研究所の馮昭奎研究員らが次々と「対日新思考外交」論文を発表した。馬氏は日本側は既に過去の戦争について何度も謝罪しており、これにこだわるべきではないとし、時教授は歴史問題の棚上げを主張。だが、胡政権のお墨付きをもらっていないこれらの論文は日本研究者による少数意見に留まり、ネット上では「日本人の手先」と酷評され、馬氏は香港の鳳凰衛視台(フェニックステレビ)の時事論説員に職を移す羽目になったほどだ。

 一方で、胡錦濤政権は国益優先策を取り、六月の北京、上海での大相撲公演では、繰り返しテレビ放送し、日中友好ムードを演出。九九年以降は靖国問題などについて国営の新聞メディアは一面トップで掲載したものを四面で小さくしか扱わないなど細かい制御は始めている。日本企業による地域振興が不可欠の地方政府レベルでは、地方政府トップが来日して頻繁に投資説明会を開き、小泉首相と会見し、日本企業の地方への誘致を積極的に働きかけるなど、経済分野での交流は高まるばかりだ。

 日本にとって今後は当分、国益中心の冷静な外交をとり、地道な草の根交流で続けていくことが「政冷経熱」の温度差を縮めて正常な日中関係を築いていく近道となりそうだ。(2004年8月31日記、深川耕治)