中国企画記事 特選

2004年10月7日記

日露戦争開戦100年

日本人観光景気に沸く旅順

反日の視点で戦跡説明/観光客を食い物にする商売も

 今年は日露戦争開戦から百年。一九〇四年二月の開戦直後から約十一カ月間、日露双方合わせて約九万人の死傷者を出した主戦場・旅順は、旧満州時代を懐かしむ白髪の日本人観光客が押し寄せ、空前の日本人観光景気が続く。だが、反日歴史教育の戦跡基地としか見ない中国当局は、「日露戦争の最大の被害者は中国人」との観点から史実を反日愛国的視点だけで啓蒙(けいもう)、地元民の商売が日本人観光客を食い物にするゆがんだ構造が浮き彫りになっている。
(04年10月8日記、中国遼寧省旅順で、深川耕治、写真も)


 日露戦争の激戦地、旅順の二〇三高地の登り口。土産物屋の前では、戦前、日本語教育を受けたという満族の韓行恕さん(80)が日本人団体観光客の前でいつもの流暢(りゅうちょう)な日本語で説明を行う。

 「日露戦争で多くの中国人が多大な犠牲と損失を受けた。この史跡はすべて中日友好のため」と強調。「漢族か満族か顔で見分けはつかないよ」と苦笑しながら自身が満州族であることを明らかにした韓さんは「日露戦争は中国人にとっては無益なこと。旅順に住んでいた祖父が頭上で銃弾が飛び交った実話を私に語り伝えたように、中国人にとっては複雑な戦争心理となりやすい」と話した。

 韓さんが立つ背後には、二〇三高地についての説明文が看板として掲げられ、中国政府の歴史観が色濃く表れる。そこには日本語と英語、中国語で「戦後、旧日本軍国主義の頭である乃木希典は二〇三(アーリンサン)の中国語の音読みによってそれを爾霊山と改名した。日本軍の亡霊を供養するために戦争が残した砲弾の皮と廃棄武器から日本式歩兵銃の銃弾のような形で高さ十・三メートルの高さの爾霊山慰霊タワーを作り上げ、日本国民をだましている」と表記している。
picture 1913年に建立された爾霊山慰霊塔

 韓さんの日本語での説明が終わるのを待ちかねた駕籠(かご)かきが、次々と日本人観光客を乗せようと手招きする。まるでたむろする苦力(クーリー)のような駕籠かきは、二〇三高地の山頂まで片道約百五十メートルの往復に百元(一元=十三円)をふっかけ、中国語の分からない七十歳前後の老夫婦に「ズーハーズーハー」と息を荒げながらミネラルウオーターを二本三十元で売りつけ、日本人観光客らは「怖くて断り切れなかった」と声を震わせる。片道百元と勘違いさせて、二百元せしめようとする駕籠かきもいるほど、日本人客を食い物にしている。

 韓さんは日本人客に「戦跡は、正に日本とロシアが中国を侵略した罪悪行為の証拠」と記された写真集「旅順口近代戦争遺跡」(大連出版社、百六十元)などをしきりに売ろうとする。写真集や土産物を日本人客に売ってリベートを店からもらうことで生計を立て、にらみを利かす中国当局の視線を気にして、日本統治時代のノスタルジーは微塵(みじん)もエじさせないそぶりだ。

 日露戦争の戦後処理で乃木希典とロシア側代表が話し合いを持った水師営会見所で日露戦争の文献を販売している文立久さん(76)も「やはり中国人としては複雑な思い」と話す。
picture 二〇三高地の山頂に向けて日本人観光客を乗せる駕籠(かご)

 中国遼寧省大連市内にある旅順は、市中心部から車で約一時間の場所にある。現在は中国海軍北海艦隊の基地があり、以前は不凍港の軍港であることから長らく外国人の観光を許可しなかった。日本人が旅順の一部(全体の四分の一)に足を踏み込めるようになったのは一九九七年からだ。それまでは、どうしても旅順の日露戦争にかかわる名所旧跡に行きたい日本人は特別な場合、一人一万円の査証申請をして旅順のごく一部に入ることを許可されていた。

 満州鉄道の本社があった大連は一九四五年八月の終戦以降、引き揚げ者が四七年ごろにほとんどが大連港から船で帰国した。当時のことを知る日本人にとっては郷愁を帯びた旧満州の港の代表格といえる。「旅順には一日平均一千人以上の日本人観光客が来ます。最近は中国人客の数倍に増え、日本語の併訳付き写真集が飛ぶように売れて日本人は空前の上得意客」と地元旅行会社社員は話す。

 終戦後、日露戦争の屈辱を晴らすべく、スターリンは毛沢東との話し合いで旅順港を中ソの共同管理地域にするよう働き掛けて合意を得、その共同管理体制は五三年の中ソ友好条約締結から二年後の五五年まで続いた。
picture コントラチェンコ少将の死去を悼む小さな石碑

 現在でも、旅順は大連市の一行政区でありながら、軍港であるが故に全体の半分が外国人には進入禁止区域となっている(中国国民は観光可能)。旅順には中国人民解放軍の陸海軍合わせて約一万人が駐屯。旧満鉄の線路は現在も残っており、旅順の住民は大連中心部へ通勤する場合、鉄道を使って片道二時間かけて通っている特殊空間だ。漁業以外に目立った産業はなく、大連市中心部の発展ぶりとは落差が大きい。

 旅順の日露戦争陳列館(旅順口区国防教育基地)には当時の経緯が中国政府の歴史認識に合致する形で詳細に展示されている。年間百万人の中国人が訪れる「愛国教育基地」だからだ。二〇三高地の山上には乃木将軍筆跡の慰霊塔が建ち、その石碑から約二十メートルの場所にはロシア軍の陸上防御司令官、コントラチェンコ少将の死去を悼む小さな石碑がある。そこには「戦後、日本軍は大きな度量と戦功を誇示するために石碑を建てた」と日本語で表記され、敵将をたたえる武士道精神で石碑を建てたとする日本側の主張と大きく食い違う。

 日露戦争は中国にとっては、日本もロシアも中国を侵略する帝国主義列強にすぎず、日本が当時、韓半島へのロシアや清の勢力拡大を阻止するために日清・日露戦争に向かったとする見方とはいつまでも平行線のままで終わりそうだ。