マカオ関連記事  1999年12月18日記


■■ 沈みゆくマカオ ■■ 中国返還の光と影(2)

公立大に日本研究センター
香港の「下請け観光業」いまだに脱皮できず

 「香港返還前は毎月八、九千人が日本からマカオにツアーで来ていた。返還後、香港への日
本人観光客は一時的に激減して持ち直したが、マカオへは現在、毎月一千人前後しか訪れて
くれない」――マカオ旅行社の村石邦生社長は長年、香港の“下請け観光業”から脱皮できな
かったマカオの産業構造のツケが回ってきたと説明する。 

 マカオ人女性と結婚し、三十年以上マカオに滞在する村石社長は「マカオ日本人会」会長。
三年前、約百二十人だったマカオ在住の日本人は現在、百人を切り、日東紡やYKKなどの日
系企業、旅行社などの駐在員家族などが生活している。マカオには日本領事館がないため、
村石社長が奉仕でマカオ在住の日本人の世話係をしている。 

 「マカオの日本人社会が活気を見せるのは、軍部が台頭した戦時中と観光が盛んになる一
九七〇年代末から。ポルトガル人と中国人の混血のマカニーズも日本人キリシタンの血が混じ
っているので、マカオ人は日本へのあこがれと関心が深い」と村石社長。 

 マカオと日本人の関係は十六世紀末にさかのぼる。伊東マンショら遣欧少年使節団がヨーロ
ッパへの往路と帰路、マカオに滞在。十七世紀初め、マカオ随一の観光地で建物正面の壁面
しか残っていない聖ポール天主堂跡は、徳川幕府のキリシタン禁止令で追放された日本人キ
リシタンたちがイタリア人イエズス会宣教師と協力して完成した。十八世紀初めのポルトガル語
史料を洗礼名でたどっていくと、日本人キリシタンの末裔(えい)が聖ポール天主堂で神学を学
び、神父になった経緯がテレーザ神父著「マカオの日本人」などで紹介されている。 

 「マカオはポルトガル領だからこそ、戦時中も日本軍が意図的に占領せず、中立地としての
魅力があった。マカオが中国に返還され、魅力の生き証人であるマカニーズを中国側が冷遇
し続けるならば中立地の魅力を失い、中国の一地方都市に成り下がってしまうだろう」と力説
するのは、戦時中のマカオ日本人社会を研究する宜野座(ぎのざ)伸治・マカオ大学日本研究
センター所長の弁だ。 

 マカオ唯一の公立大学、マカオ大学(学生数約三千五百人)はポルトガル人のジョージ・ラン
ジェル文部長官の肝いりで日本研究センターを創設し、教授陣六人、日本語科の講師五人、
日本人交換留学生六人がいる。 

 同センターの所長を務める宜野座助教授は「ポルトガル領だったわずか人口四十三万人の
マカオがいかに日本を重視しているかを示すに余りある」と強調する。 

 日中戦争以後、広東攻略(一九三八年)や香港占領(一九四一年)で日本軍はポルトガル領
マカオを意のままにコントロールできる「中立地」に仕立て上げた。英国領事館も存在し、重慶
の蒋介石政権が支持する中国人、親日的な中国語新聞社「西南日報」や付属日本語学校を
設立した台湾人、日本の特務機関や諜報機関が入り交じっての謀略、テロ(四五年、中国人
が福井保光・初代マカオ領事を暗殺)が行われる。 

 当時の日本人社会を研究する宜野座助教授は「当時のマカオは各国の特務諜報部員が入
り乱れ、まるで現在のマカオの暴力団抗争のようにテロが横行、北朝鮮工作員が自由に闊歩
(かっぽ)できるのも当時とそっくり」と説明。戦時中、マカオを意のままにコントロールできる中
立地に仕立て上げた日本軍と、「一国二制度」の名の下で返還後のマカオを牛耳る中国をだ
ぶらせる。 

 戦時中、マカオの日本人滞在人数はピーク時の一九四二年で推定二百人。だが、終戦後の
四六年一月調査では日本人はわずか五十三人となった。「マカオにいた日本人の四分の三に
当たる約百五十人が軍人や特務機関の人間だったという動かぬ証拠です」と宜野座助教授。 

 返還後のマカオは、香港同様、国防と外交以外は「五十年間」という期限付きで高度の自治
が保障された「一国二制度」に移行する。 

 だが、中国当局の意向にそぐわない司法判決を下す返還後の香港の痛い失策を繰り返さな
いように、マカオでは初代マカオ行政長官に就任する何厚カ氏が北京寄りの最高裁長官に判
事歴わずか二年の三十八歳新米判事を抜てき。 

 父親が毛沢東の文化大革命礼賛者だった地場銀行頭取出身の何氏自身も親中系財界人
二世であり、香港の董建華行政長官との多くの類似点が指摘されている。

(99年12月18日記)




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